夢、叶ったじゃん

私は住宅雑誌の編集をしています。
この前、業者のところへ行き、ショールームをカメラで撮っていました。
ひざをついてパシャパシャ一眼で撮っていました。
するとこの瞬間ってどこかで経験したはずだと思ったのでした。
そしたら、小学校5年生のときに文集で描いた絵を思い出したのです。
そこには新聞記者になりたいという夢とひざをついて写真を撮る自分の姿を描きました。
その姿がそのまま実現していたのでした。
知らないあいだに夢が実現していた瞬間でした。
確かに新聞記者ではありませんが、雑誌記者という形で実現したのでした。
イメージすれば夢は叶うとか手帳かなんかに目標を書けば夢が叶うということが自己啓発本に書いてあります。
そこに絵を付け加えればもっと夢が簡単に叶うんじゃないかしらと思いました。

素人の文章に多い、「また」「など」の多用

私は創刊したばかりの雑誌の編集をしているので、何十年も文章を書いていないようなド素人の同僚が書いた文章を添削する機会がある。私の文章もたいがいなものだが、同僚はもっとひどい。
だいたい、文章を書いたことがない人に限って、一文を長くしようとする。一文を長くすれば、なんとか文章がつながっているように見えて、楽だからだ。だから、一文を短文にするように言う。どの文章マニュアルにも載っている方法だ。
短文にするように言うと、「また」とか「そして」という接続詞を使って、文章をくっつけようとする。特に「また」が多いのだが、「また」を使えば全く関係ない文章でもつながってしまうから便利なのだ。「また」を使いたくなったら、文章の表現や順番を粘り強く考えて、「また」を使わずに、文章がつながるようにしてもらいたい。「また」がなくても普通に文章がつながっている場合でも、不安になって、「また」を使って、文章をつなげようとしがちだから気をつけよう。「また」は禁止。


次に「など」だ。これもよく見る。「など」は挙げる例が一つの場合は使わない。


×数学などの理系科目が好きです。 
○ 数学や理科などの理系科目が好きです。
○ 数学のような理系科目が好きです。

例を二つ以上挙げるか「ように」を使おう。


とこれだけで読みやすい文章が書けるわけではないが、ちょっと気にしてほしいなと思った次第。

上岡龍太郎はカムバックしなくてよい

http://hideyuki-kawabe.com/think/kamiokaryutaro
またゾロでてきた。
上岡龍太郎待望論。

前に書いたやつをコピペしときます。



なんだか上岡龍太郎の動画が絶賛されていて、今上岡がテレビに必要だみたいなことになっているわけです。
でも必要ですか?

上岡龍太郎は引退する前に関東でレギュラーを持っていたもののことごとく切られました。

別にオカルト批判をしたから切られたわけではなく、
単に関東の人間に飽きられ嫌われていたからです。
単に番組の低視聴率のためです。
上岡はよく調べもしないで薀蓄を語りますが、ことごとく間違っていました。本当に事実誤認が多かったです。

たけしもある番組で「上岡さんの話って聞いているときはそうなんだと思うんだけど、家に帰って調べてみると全然ちがうんだよね」と言ってました。
ネット時代の今ならもっとツッコミが入ったでしょう。
上岡はネット時代に生きられないタレントだと思います。

知識がないなら、ちゃんとした見識があるかというとそういうわけでもなく、
オカルト批判以外に思想のようなものは何一つありませんでした。
上岡に笑わせてもらったことは一度もないし、私は似非インテリの代表のような人だと思っていました。
なぜか関西はこういう似非インテリ的な発言を許容する風土があるみたいですね。
紳助の論にもなっていないようななんとか論も喜んで聞いていますよね。
でも関東の人間にとっては片腹痛いんですよ。
今上岡が必要なのではなくて、オカルト批判する番組を作ろうというテレビ局の姿勢が必要なのでしょう。

オカルト批判するなら上岡でなくとも松尾貴史とかのウンチク芸人でもいいわけですし。
そういう番組を作れないテレビ局に問題があるのです。
オカルト番組はオカルト番組で作ればいいし、その一方でオカルト批判番組を作れる。
柔軟な姿勢がテレビ局にあればいいだけではないでしょうか。

個人的にはスピリチュアルとかオカルトに関しては半信半疑というところで、あってもおかしくない世界だとは思いますが、オウム事件のときにあれだけオカルト批判をしておいて、今度は全面的に肯定するテレビはおかしいと思います。

とにかく視聴者に材料を与えてくれればいいと思います。
その上で視聴者がそれを信じるか信じないか決めればいいだけでしょう。

「もしドラ」の次はこの3冊

もしドラ」という本が100万部売れてヤフーニュースになったりしている。
もしドラ」で経営について興味を持って、ドラッカーの解説書を読んでも勉強している感じで面白くないと思う。
やっぱりドラッカーの原典を読むのがいいだろう。
もしドラよ、もう一度、楽しんで経営の勉強をしたい」という人に勧めるとしたらこの3冊だな。

モテるコンサルティング戦略

モテるコンサルティング戦略

成功者の告白 (講談社+α文庫)

成功者の告白 (講談社+α文庫)

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か


「モテるコンサルティング戦略」は恋愛マニュアルでありながら、経営戦略の基礎も学べるという優れもの。
一般的な経営理論の本を読むよりも頭に入ってきやすく、
記憶に残りやすい。
この本を読んだら、MBAなんとかみたいな経営理論の本を読んで
包括的に経営理論を身につけよう。
「成功者の告白」は小説形式で企業したときに起こりうる失敗と成功の軌跡を描いた本。
起業をしたいという人は是非読んでほしい。
なんか起業って簡単なのかもって思ってしまうかもしれないけれど。
あまり聞いたことがない著者独自の経営手法も説明されていてユニークで興味深い。
小説としても希求力がある。


「ザ・ゴール」は主人公が潰れそうな工場を建て直すという話。
小説形式で生産管理の基礎を学べる。
一見厚くて読み終わらなそうだが、改行が多くて、展開がハリウッド映画のようなので、夢中になって読める。
何人かの友達に貸したら「面白い」と好評だった。
工場の生産管理という、つまらなそうなテーマをここまでエンターテイメント化してしまうなんてやっぱりアメリカのビジネス書界はすごいと思った。
中小企業診断士」の試験対策の本でも勧められていた。
続編もかなり読ませる。


というこでこの3冊はハズレなし。
初心者でも読み通せるので是非夏休みにでも読んでみて。

ナイエッティ

借りぐらしのアリエッティ観てきた。
一言で表すと「物足りない」。
短編を長編にしたような感じがした。
終わったときは観客はきょとんとして「これで終わり?」という顔をしていた。
男の子が祖母の家に引っ越してきて、小人のアリエッティの家族に出会う。
アリエッティは男の子に見つかってしまう。
アリエッティが男の子と交流を持つことで、家政婦に見つかってしまい、家政婦は
アリエッティの家族を捕獲するためにネズミ捕りの業者を呼ぶ。
ハラハラドキドキ。
それで終わり。
他に何もなし。
心臓病で苦しんでいる男の子がどうなったかも引っ越すことになったアリエッティの家族がどうなったか描かれない。
尻切れトンボ。
それはそれとして、面白い冒険活劇があればいいのだけど、なんか暗い。
ちっともテンションが上がらない。
宮崎アニメは絶対にテンションが上がるシーンがあったはず。
淡々と進んで、終わり。
宮崎走りと言われるあの走り方もあったし、アリエッティがよじ登ったり高いところから飛び降りたりというアクションもあったのになんでだろう、全然盛り上がらない。
唯一盛り上がったのが樹木希林が声優を務めた家政婦の小人を捕まえようとする執念の異常さだけ。
だから、観に行かなくていいと思うよ。

101回目のプロポーズと卒業

今日の「SMAP×SMAP」は武田鉄矢浅野温子のコンビだったらしい。
最近浅野温子が気になって仕方がない。

この動画を観たからだ。
浅野温子という人は時代を代表しすぎて、時代が終わるとともに失速していった気がする。
個性的な演技ゆえに飽きられてしまった。
でも、今みると演技もちゃんとしている。
真似されるだけの演技をできるというのは立派なもんだ。


そんな気になって仕方がない浅野温子は置いといて、101回目のプロポーズについて。
最初、武田鉄矢は最後ふられる設定だったらしい。
でも武田鉄矢演じる星野達郎を幸せにしてあげてという声がテレビ局に殺到して、ああいうラストになったとのこと。


野島伸司のドラマには映画「卒業」のように結婚式で婚約者にフラれるという設定がよく出てくる。
登場人物の台詞で「残された婚約者がかわいそうだ」という
のもよくある。
奪った側ではなくて、残された婚約者の側に立ってドラマをつくろうという思いが野島にはある。
であるがゆえに、武田の恋愛も本当は成就してはならなかった。
今まで奪わる側だった武田が最終的に奪う側に回るだけであり、それでは誰かが悲しむことに代わりはないからである。


野島の中で101回目のプロポーズの成功は棘のように残りつづけた。
そして、野島の作家性が爆発したのが「世紀末の詩」である。
このドラマの中のひとつの話で、斉藤洋介という俳優が目の見えない女の子のために尽くす男を演じている。
ハッキリ言って斉藤洋介武田鉄矢と同じくらい不細工である。
目の見えない女の子の手術代を稼ぐために斉藤洋介はお金を貯めて、女の子は手術に成功。しかし、女の子は斉藤洋介の姿を初めて見て幻滅し、お金持ちのイケメンの元へと去る。
野島がほんとうにやりたいことをやったのだ。
最後まで奪われる側を主人公にしてドラマをつくったのだ。


世紀末の詩」は竹野内豊木村佳乃の恋愛を縦軸に全話を通じて二人の恋愛が描かれる。竹野内豊も結婚式で花嫁に逃げられた花婿という設定である。そして、木村佳乃が結婚することになり、「結婚式に奪いに行く」と竹野内豊は言うのだが、実際は行かない。行ったら、奪う側と同じになってしまうから。
結婚式当日、自分の愛の証として風船をふくらませて、結婚式場から見えるように飛ばすのだった。


卒業のシチュエーションを憎み、奪われた側に過剰に感情移入する野島伸司
だが、果たして卒業は奪われる側の悲しみを考えないどうしようもない映画だったのだろうか。
それは違う。


「卒業」でダスティンホフマンが花嫁を奪った後にバスに乗る。二人は最後、無表情になる。花嫁を奪った高揚は冷め、「これからどうしよう」という思いが二人をよぎるのだ。
ことほどさように映画というものはほつれを含んでおり、
花嫁を奪って万々歳というわけではないのだ。
奪う側だっていろいろ大変なのだった。
というわけで、野島伸司は「卒業」を誤読していたのかもしれないが、結果的に「101回目のプロポーズ」と「世紀末の詩」という傑作ドラマを生んだから全然オッケーである。
クリエイターは批評家ではないので、誤読して構わないのである。

リア充なんかこわくない

よくみうらじゅんが言ってる言葉に青春ノイローゼというのがある。
青春を謳歌できているのだろうかといつも不安で仕方がないという症例である。
他にも2ちゃんねらーリア充氏ねというのも同じ心理だと思う。
自分は青春を生きていないから楽しそうなやつを見るとむかつくという。
私もそんなときがあったが、福田恆存の「私の幸福論」の中の「青春について」という一章を読んでだいぶ楽になった。
いつものように引用しつつ紹介したい。

おもうに、青春ということば自体に誤解があるのでしょう。青春という一語から、多くのひとは「甘やかされたる状態」という意味を感じ取っているらしい。銀座、喫茶店、ダンス、映画、ハイキング、それらが青春ということばの周囲をとりまいているようです。が、そんなものは青春とはなんの関係もない。私自身、自分の青春時代を顧みて、そんなものとは、ほどんど縁がありませんでした。東京に生れ東京に育った私ですが、ごく幼年時代、母に連れられて銀座に行ったことが一度ありますが、自分で友だちと一緒に銀座に出かけたのは高等学校にはいってからであります。たぶん二十くらいになってからでしょう。その高校時代にも前後を通じて三四度しかありません。その後も今日に至るまで、私の目に銀座というものが他と異なった薔薇色の夢に包まれて映じたことは一度もないのです。

今だと六本木とかクラブとかそんな感じだろうか。そんなものに青春の本質は関係ないと福田恆存は言っている。

戦争がひどくなって、それらの、いわゆる青春の小道具は、かたはしから無くなっていきましたが、だからといって、私は青春が失われつつあるとは感じませんでした。そればかりではありません。言論の自由さえ失われるようになったのですが、それでも、青春が失われたという実感はもたなかったのです。就職難も私から青春を奪うことはできなかった。なぜでしょうか。

戦争でひどい目にあったロスジェネだった福田恆存だが、それでも青春を失ったと考えていないという。

理由はかんたんです。私は若かった、そのころの自分の一時期を、一度も青春という言葉で考えてみたことがなかったからです。そういう私の眼から見ると、現代は青春意識の過剰に陥っているようにおもわれます。青春ばかりではない。さらに細分してティーン・エイジャーだの思春期だの三十娘だのと騒ぐ。ひとびとは青春の入口で興奮しその出口が近づくと慌ててしがみつくというありさまだ。皮肉にいえば戦争中の反動で社会全体が色情狂になってしまったかとおもわれるほどです。私は自分の青少年時代を顧みて、私の青春を私自身に気づかしめずにいてくれた両親や教師や社会に感謝したくなります。また、かれらは私に青春を押しつけなかったばかりでなく、私自身が無関心でいたことを結果としてはいいことをしたとおもっています。

青春に気づかしめずにいてくれた両親や教師や社会に感謝するって言い方にしびれる。普通反対だろうけど。それが間違っていたわけか。

ですから、私もみなさんにその手をおすすめしたい。「失われた青春」などという考えかたをそのまま受けいれると、みなさんのなかで、青春という概念が不均衡に大きくなります。その結果、本来は青春とは無縁のものまで、いや、そういうものばかりを、青春とおもいこみ、それが自分に欠けているがゆえに、自分は青春を楽しめないとひがむようになるのです。そのときこそ、みなさんは、本当の意味で青春を失ってしまうのです。のみならず、青春の本質とはかかわりのない薔薇色の青春にうつつをぬかしているひとたちは、それを失ったとたんに、急にふけこむのです。よく見うけることですが、若いうちから色気づいて濃厚なお化粧に身をやつし、青春とは色恋沙汰以外のなにものでもないかのように過ごしたひとが結婚して急に世帯やつれするようなものです。

リア充嫌いの皆様、朗報ですぞ。ビッチもリア充も結婚すると世帯やつれしてしまうそうだ。

もし青春ということば真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。「失われた青春」などというひとは、若くしてすでに老いたひとです。大人や老年と区別して自分たちの若さを誇りたがるひとも、いかにディスコやアルコールに浮かれていようと、すでに青春を失ったひとたちです。青春を飾るあらゆるアクセサリーを失っても、暗い不信の念やひがみ根性さえもたなければ、そのひとは青春を享受しているといえましょう。

なるほど。青春はアルコールとかドラックとかクラブとかそんなアクセサリーとは関係なく、心の態度だということか。

一言でいえば、青春などということばにあまりこだわらず、まず人間としての自分の生活に熱中すること、それが一番大事だとおもいます。それに熱中できない世の中ではないかと反問するひとがいるかもしれない。それなら、どういう世の中であろうと、どんな不幸な目にあおうと、自他を信頼できる力こそ、青春のものだと申しあげましょう。それは他人や社会にたいする批判力に眼をつぶらせろということを意味しはしません。懐疑し、批判し、裁いたのちに、なお残る信頼の力でなければならない。だからこそ、力といっているのであります。理窟ではありません。さらに附け加えるなら、その力が残らぬような懐疑や批判だったら、それはみなさんの手に余る危険なものです。構わないから投げすてておしまいなさい。

私たちの世代、ロスジェネは上のバブル世代から青春というものを見せ付けられたという世代だと思う。
そして、大学時代あたりに中途半端に青春の切れ端を味わったがために、それがなくなった今、とても悲しい思いをしている。
むしろ、青春というものがまったくなかったゆとり世代のほうが幸せと言えるかもしれない。
だが、青春というものを意識せずになにかに没頭していることが一番大事だと福田恆存は教えてくれた。
そして、上の世代に対する不信の念を抱くばかりでなく、何かを信じることの大事さも教えてくれた。
今の時代に読まれるべきものはやっぱり福田恆存だと私は思う。

やっぱり、信じることが大事なのだね。中途半端に疑うくらいなら、何かを信じぬくこと、それが青春というものなのだ。