タモリとえせインテリ

サラ金のCMに出てからは落ち着いたようだが、2ちゃんねらーとかはてなブロガーの
タモリ礼賛とか神格化が私は気持ち悪くて仕方がない。
小林信彦の「笑学百科」という本にタモリについて書いた文章があったと思った。
そこではタモリ評価に対する違和感の源が語られていて腑に落ちた記憶がある。
しかし本をなくしてしまったし、絶版になっているので、図書館で借りてきた。
私がなぜタモリをほめる人たちのことを気持ち悪いと思うかの理由が書いてある気がした。
この本は1981年に夕刊フジに連載したものをまとめたものだ。
小林信彦広告批評という雑誌のタモリ特集から引用している。

<芸能界という芸の世界から言うと、あの人はやっぱり外人(異邦人)なんです。……だから、単に“芸人”というだけの批評をすれば相当にレベルは低い、と僕は思う。だけど、あの個性、あの感覚と個性にはもう脱帽します>
 という永六輔の談話と、<あの人は、一つの芸というか、芸人という一つの立場にいる人じゃないでしょ>
 というビートたけしの談話に集約されると思う。
 (中略)
たけしの考えは、要約すると、次のようになる。
―日本人の大半が中流意識を持ち、<頭のほうもまあまあ>と思っている。大学に行ったというだけで、自分の頭までレベルが高いと思ってしまう。つまり、大半はインテリならぬ、えせインテリである。……タモリは、えせインテリの自尊心、幼稚なプライドをくすぐるのが<すごくうまい>。<ホント、えせインテリだと思う、タモリのことをどうのこうの面白がる人って。>
 これは痛烈である。
 たけしは、<えせインテリは、知的センスをくすぐるようなものがすばらしい笑いと思い始めた>という。だから、漫才師(たけし自身)が同業の漫才師を批判したりすると、妙にウケたりする、と批判の矛先は自分自身にも向けられている。
 それにしても、えせインテリという古くさい言葉で、観客・大衆をばっさり切った手並みは鮮やかである。
タモリの黒眼鏡に象徴されるのは虚実反転の思想である……」
 というような言葉を発するえせインテリ。
「漫才形式の中における反漫才としてのツービートは……」
 などと口走るえせインテリ。
 それはそうだ。芸を視る観客としてのキャリアがまるでなくて、<面白けりゃいいんじゃないスか>とか<ものごころついたときにテレビがあったのだからなあ……>というだけでは、えせにならざるえないのだ。
 まあ、どんなに悪口を言っても大丈夫。えせインテリは他人が批判されていると信じて、ゲラゲラ笑っているから、苦情がくるおそれはない。

久しぶりに読み返すと漫才ブームのときの文章なのにも関わらず今のお笑いブームと状況は変わってない気がする。
タモリは相変わらずえせインテリに好かれるような芸を見せている。
そして、それを持ち上げるえせインテリたちのメンタリティも変わっていない。
むしろ、寄席にも行ったこともなくテレビを見ているだけでお笑いを語るえせインテリは増えているだろう。
一億総えせインテリ時代がタモリを支持しているのかもしれない。
81年の広告批評は的確に対象を批判している。
しかし、今、クイックジャパンなどでタモリ特集をやったとしたらタモリを批判する言説は一つも聞かれないのではないか。
その意味ではお笑いの批評は退化しているといってもいいと思う。
それはプロの演芸評論家が消え、えせインテリが台頭したからだろう。
えせインテリはどんなに批判してもいいそうなので、言わせてもらう。
えせインテリは早く滅びろ!