日本語が変?

朝日新聞、近頃日本語が変、「私って○○な人じゃないですか」という言葉について。これは言葉の問題ではなくしゃべる側の人格の問題だと思う。こういうふうに言われたら「ごめん、君のことよく知らないんだよね」と言ってあげれば済む問題じゃないか。一面を使って中村うさぎとか堤幸彦とかに考えてもらう問題じゃない。それに「私って○○じゃないですか」って話す人に今まで会ったことないのだけれど。レアなケースではないか。

美輪明宏先生は「もしもし」が「もすぃもすぃー」になってしまうという若者の言葉の乱れについてこの前教育テレビで語ってらした。発音の乱れですね。こっちのケースの方がまだ多いのと思うのだが。枕草子にも最近の言葉は乱れているという文章が載っているらしいしやはり言葉は乱れているということを言いたい人はどの時代にも多いのかもしれない。で、私はどう考えるか?私も思いっきり乱れているので人の事は言えません。美しい日本語をしゃべる人として、私は櫻井よしこさんと国谷裕子さんを思い浮かべるのだが、この二人とも若い頃に海外に住んでたんだってね。意外と海外に住んでいた方が純粋培養で美しい日本語をしゃべることが出来るのかもしれない。


話は逸れるが櫻井よしこさんを見るといつも私は「正義の味方」という言葉が頭に浮かんでくる。私は櫻井よしこさんの外交政策が正しいとか判断する能力は無いが、この人はとにかく自分が不正だと思うことを許さず、自分の保身より正義感で行動しているのだなというように見える。私は保守論壇の連中があまり好きではないが、なんか損得勘定で動いているような気がして好きじゃないんだと思う。櫻井よしこさんにはそれが無いから私は好きなのだ。これを書くと馬鹿じゃないかと思われるかもしれないけど、福島瑞穂も私は好きなのだよ。福島も普通に弁護士として働いていればもっと責任も無いしバッシングされることも無くお金儲けして気楽に暮らせると思うのだ。だが、福島はあえて茨の道を歩んでいる気がしてならない。この人も正義感に突き動かされているのだと思う。まあ、思想的にはちょっとどうかなと思うときもあるが、人柄的には最高の人だと思う。田嶋陽子と一緒くたにされているが、結局田島がエゴイストで銭ゲバなのに比べると格段に心の美しい人だと思う。
結局私は心の美しい人が好きなのだ。谷亮子を見ていると腹が立ってくるけど、北斗晶を見ても腹は立たない。顔は同じなのに。それは谷亮子の傲慢さ、なにもかも計算尽くで「田村亮子でも金、谷亮子でも金」ぐらいなことを言っていればマスコミは喜ぶだろうという高をくくったところが嫌いなのだの思う。


タイガー&ドラゴン、ネットでドラマの批評とかしている奴に対する皮肉というか憤りに満ちた回であった。だが、この多幸感はなんなのだろう。自分の好きな世界に進むのに古典をやるか自分の味を出すかと迷う虎児。挟まれるこねた。見ていて楽しかった。作っている側も楽しいのだろうなと感じた。クドカンの個人的な感情に見えるが実は作家としての普遍的な主題、批評家むかつく、ベタをやればいいの?それとも自分の好きな世界を表に出した方がいいの?というのをドラマという土俵に乗せ見事に物語にしているのが素晴らしい。ピンポンとか見てると分かるけど、クドカンも大量のギャグに少しのまっとうな思想を絡めて語るのがうまい人だね。実はとても普遍性のある主題を同世代、あるいは同地域にしか分からないギャグをちりばめてしまって受取り手を狭くするのが好きな人だ。そういうもったいないところも含めて好きだなあ。