2ちゃんねるで読んでもらったら

昨日につづき、わたしのブログについてこんなかきこみが。


483 :Trackback(774):2005/05/22(日) 04:08:19 ID:6BxO21NN
>>459
改行が少なく読みにくい。
白地に黒がダーっと羅列している感じ。
それと回想録のような記事はひとりよがりで日記にでも
書いてろって印象です。つまらない。
昔話を語るオヤジのようにも受け取れて
「わかったわかった」と真面目に読む気さえ起きない。

感想を求めてるんじゃなくて宣伝でしょ。
そのブログを宣伝されてもリピーターはつかないでしょう。
無理やり読まされた気がして気分が悪くなるブログでした。
リンクの多用もほどほどという言葉をこいつはしらないのかと
思うくらいで、わずらわしい限りです。
0点


これからはこのブログの名前もオヤジの回顧録にしようかしら。毎日書いてるんだもの回顧録も書きたくなるときだってあるっての。2ちゃんねるらしい。罵詈雑言ですね。2ちゃんねるとはいえ、あんな過疎の板に宣伝にしたところで、アクセスにはつながらないんですけど。はやりのキーワードを使って文章を書いたほうがアクセスがあがるんですけど。一日100アクセス以上、リピーターもいるんですけど。お前に読んでほしいなんて思ってないから、昨日紹介した人に読んでもらおうとおもっただけだから。頼むからちゃんと読んでから批評してほしいですよね。二、三日読んだだけで批評されても。この人、すぐ、つまらないとか0点とかいうんですよね。他のブログもこてんぱんでした。批評するにしても芸がなさすぎる。つまらない。0点。


アッコにおまかせを見ていたら、アナウンサーの安東弘樹が世界平和について語ったり、特攻隊の本を恋人に勧めたり、恋人、川幡由佳家の先祖の軍人の遺影に敬礼したり、体を鍛えたり、かなりのマチズモの持ち主。戦争研究して反戦に行った人ですね。
この本を読んで恋人も回し読みしたその家族も号泣したそうです。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

今日われ生きてあり (新潮文庫)

からくりテレビを見ていたらアンタッチャブル山崎のお母さんがボケまくり。さんまに踊るさんま御殿に出てくださいと言われていた。ボケってDNAに組みこまれているのかしら。
みんなのかえうたのコーナーに二人のいわゆる負け犬OLが出てきたのだが、これが痛々しくて見てられなかった。結婚できないからお笑いに無理矢理走っちゃうみたいな。別にそんなに30代でもてないからといってお笑いキャラにならなくていいんだよ。自然に生きてればいいんだよ。と言いたくなってしまった。得てして女の芸人も異性を意識したりしてぶりっこしたり逆に開き直って女捨ててますキャラになったりするのだが、ニュートラルでいればいいじゃないとおもう。女性を売りにしなくても、ふつうに笑わせればいいじゃないか。友近とか清水ミチコが好きなのはそういう女性くささがないからかもしれない。


無名アーティストのWildLifeよりちょっと長いけど引用します。
05/05/21(土)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/index.html
●昨日の夜、『タイガー&ドラゴン』をはじめて観たけど、あまり面白いとは思えなかった。大して面白くない話でも、話法を複雑にすればそれなりに「観られる」ものになるし、一つ一つのシーン(あるいはネタ)そのものが面白くなくても、テンポよく次々に繰り出せば、それなりの時間を「もたせる」ことが出来る、というのは宮藤官九郎のテレビドラマの脚本のいつものやり口だけど、このドラマからは、その「やり口」しか見えない感じがする。つまり、テレビドラマにおけるクドカン的方法論の行き詰まりのように思える。テキストとして古典落語を用いて、そのエピソードを少しずつ意味をズラしながら、複数の登場人物に割り振りつつ、ズレを重ねてゆくことくらい、クドカンほどの力量の人なら、ほとんど何も考えずに「手技」だけで自動的に出来るのだろうし、その結果として作品からはその「手技」だけがみえてくることになる。話法を複雑にし、ズレを増殖させ、ネタを次々と繋げてゆくためには、大勢の(複雑に関係する)登場人物が「必要」なのだが、このドラマの人物たちはまさに、その(手法上の)「必要性」のためだけに設定され、配置されているという安易さがあると思う。ズレをつくりだす手口が、「手口」にしか見えないのは、このドラマの設定が、ジャンル物としての「ヤクザ」という「型」と、一見それとはほど遠い世界に思える「落語家」の世界とを、「父(組長=師匠)」を中心とした家族的な集団という共通項によって結びつける、という、単純な「意外性」のみに負っているからだと思う。つまりもともとの設定に「型」の上での意外性の面白さがあるだけなので、例えば『木更津キャッツアイ』にあった、現代の日本の「地方」の若者たちの関係性のあり方の(閉塞感の)リアルさのような、そのドラマの面白さの核心のようなものがない。『木更津キャッツアイ』や『池袋ウエストゲートパーク』の登場人物たちは、それがいかに現実からかけ離れたデフォルメされた人物として設定されていたとしても、その人物たちには、ある環境のなかで、そのようにあるしかないという必然性やリアリティが宿らされているのだが、『タイガー&ドラゴン』の人物たちには、たんにキャラクターとしての「型」があるだけなのだ。だから主演の長瀬智也も、『池袋ウエストゲートパーク』のような魅力的な幅を持った演技をすることが出来ず、ただ「ヤクザ」という型をなぞることしか出来ないのだと思う。
あと、キャスティングや演技や演出という次元でも、質が高いとは言えないと思う。例えば、西田敏行によって演じられる「師匠」が、たとえ西田氏ほどの達者な演技を望めないとしても、実際に落語家が演じていたら、それだけでドラマの説得力が(単純に「寄席」のシーンだけを考えても)全く違ったものになるのではないだろうか。このドラマには、クドカンのテレビドラマの常連のような人たちがたくさん出ているのだが、この常連の人たちの演技から、クドカンのドラマはこんな感じでやれば良い、みたいな嫌な、悪い意味での「慣れ」が感じられてしまうのも、このドラマのつまらなさに繋がっていると思う。例えば、ぼくは岡田准一という俳優はとても良い俳優だと思っていて、好きなのだが、このドラマでの岡田氏は、まさにクドカン的な「型」の呪縛に陥ってしまっているように感じられた。阿部サダヲのような人でさえ、そうみえた。(クドカンのドラマが、窪塚洋介岡田准一のような、新鮮で魅力的な若手の俳優によって支えられていたことが、『タイガー&ドラゴン』では忘れられているように思う。)ゲストとしての薬師丸ひろ子の使われ方にしても、完全に「型」にはまってしまっていて、実際にカメラの前に存在している薬師丸氏から、「何か」を引き出そう意思が、演出する側には全くないとしか思えない。


とのこと。この人はドラマはステレオタイプのキャラクターしか描いておらず、キャスティングと演出が俳優の演技を引きだしていないということをいいたいのだろう。
確かに新しい演技をしているように見られる俳優はいないのかもしれない。だが、このドラマを見終わったときの多幸感はなんなのだろう。
実はこのドラマはリアルというものを描こうとしてはいないのではないか。普遍を描こうとしているのではないか。ブログ、ネット掲示板、携帯電話、携帯メールというツールの新しさを表面的に前に出しながらも、けっして江戸時代から人間というものは変わっていない。
ランパブも無かったし、吉原も今とは違うものだった。だが、性に対する野郎の高揚感は同じである。それが今回のテーマじゃないか。人間は変わらず卑小であり、同じようなことで一喜一憂して愚かしくもあり愛すべきでもある。そういうものなのではないか。
つまり人間はそんなに時代によって変わるものではないと宮藤官九郎先生はいいたいのではないか?新しいツールは出てくるが本質は変わっていないといいたいのではないか?
本質が変わらなければそこに「型」があればその形になるだけということになる。ということで一貫しているのではないだろうか。
つまり時代を超越した本質というものをどうにか掴みとろうとドラマという「型」のなかにどうにかはめこんでいるのではないか?
タイガー&ドラゴンは恵まれた家庭に育ちながらも向いてない服屋を続ける竜次と親が自殺してやくざにならざる得なかった虎児、どちらもそんなに本質は変わらない。背丈も違うが中身は変わらない。しかし、境遇の違いで二人の道は大きく変わってしまった。その二人が落語という文化を通じて一緒の道をすすみはじめる。スリリングではないだろうか。
そして、落語という文化を通じて江戸時代の人と現在の人がリンクする。これもまたスリリングではないか。
脚本家は人間なんてそんなに変わらないよ。とうそぶいている気がするのだが。
まあそれはこじつけとしても、長瀬、岡田、阿部とかと一緒にランパブに行って大騒ぎしたような楽しさ。疑似体験的楽しさ。そういうの分からないかなあ。その場合、知り合いと行ったほうが楽しいじゃないですか。長瀬、岡田はあんまりキャラが変わらないけどそれが見知った友達と遊んでるような楽しさを感じるのですよ。