それでもボクはやってない

それでもボクはやってないをレイトショーで観た。
フリーターの26歳の青年(加瀬亮)が面接に行く途中に満員電車に乗り合わせ、女子中学生の背後に立っていたために痴漢に間違えられるという話。
その逮捕から裁判、判決までの一部始終。
とにかくどん詰まりの閉塞感が画面全体を覆っていて
私の心にもモヤモヤとしたものが広がる。
かといってつまらないというわけではなく、裁判がどうなるのかという推進力があるので飽きずに観られる。
ゲラゲラ笑うというのではなく微妙に笑える。
クスッという笑いにも届かぬなんともしれないおかしさが
ところどころにある。
法律用語特有の言葉の言い回しが面白い。
面白いといえない映画の雰囲気だが。
他には至極小さいことを論証していくのがリアルである。
痴漢の手がどこにあるのかなぜ主人公はスーツがドアに挟まってそれを取ろうと必死になったのかとか。
本当に小さく、引いてみればくだらないことである。
それが裁判の本質というものをあらわしているのかもしれない。
今までの華やかな法廷モノにはない細かさである。
留置所から10数回も続く裁判とずっと室内のシーンで構成されていて主人公の逃げ場のない気持ちと観客がシンクロするようになっている。
留置所と裁判所というきわめて地味なロケーションでありながら、少しも退屈しないで観ていられた。
裁判にはうんざりしながらも映画にうんざりするわけではない。
閉塞感を象徴するものとして川のほとりにある、役所広司演じる弁護士の事務所があげられる。
川の上を高速道路が通っている。
小林信彦が何度も語っているように日本橋の上を高速道路を通してしまったというのは
高度成長期以降の日本の閉塞感の代表といえる。
川の上を高速道路が通っている風景を見るとまさしく
出口なしという思いに駆られる。
日本の裁判制度も出口なしである。
個人ではどうにもならないシステム上の欠陥
それを2時間半かけてじっくり説明してくれるのだ。
裁判官は一見、悪者のように描かれているが、システムの上にのっかっているので、しかたがないと私は思う。
川の上にかかる高速道路のように簡単にのけることが
できない裁判制度、川の中にいる魚が何をしようと人が川をキレイにしようと努力してもムダなのだ。
どん詰まりの裁判制度は弁護士の自宅やオフィスに積み上げられた書類のおびただしい量としても表現されている。
部屋の中が本当に息苦しい。
そんなディテールにまでこだわり、キッチリと積み上げられた
映画であった。