まん延するニセ統計学

みなさんは、「ニセ統計学」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。

これは、見かけは統計学のようだけれども、実は、統計学的とはとても言えないもののことで、「占い」や「先祖供養」などとも呼ばれます。

『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、六星占術や、大殺界や、天中殺などの名前を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。



例えば、皆さんもよくご存知のように、『天中殺は運命が悪い』と盛んに言われ、ひところは大手出版社もこぞって本を売り出すほどのブームになりました。天中殺本がよく売れたのは、もちろん、天中殺本に統計的な裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。テレビや雑誌などでも頻繁に取り上げられましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。

しかし、実は、天中殺が運命的に悪いという統計的学な根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。大手出版社までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。

いまは、大殺界を使った占いに、人気が出てきているようです。しかし、実のところ、大殺界を気にしたところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。

いま、このような、統計学のようで統計学ではない、「ニセ統計学」が蔓延しています。

こういった「ニセ統計学」のなかに、しつけや道徳に関わるものがあります。その話をしたいと思います。



よく知られている例の一つは、『大殺界のときになにかをすると、人間関係が壊れる』といういわゆる「大殺界」説です。しかし、この説に、統計学的に信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセ統計学」です。

もちろん、どんな人にもそれなりのわるいできごとはありますから。それがのちのちに影響することはあるでしょう。しかし、それだけなら、どんな年でも同じです。大殺界かどうかとは、まったく別の話なのです。

ところが、この説は、教育関係者あるいは一般視聴者に広く受け入れられています。全国各地で、講演会や鑑定会が開かれているようです。

もちろん、ものごとをしない理由を探すので困っているという人は多いでしょうし、一般の視聴者もそういう自分の人生を何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「大殺界」説が一見、福音に思えたことは分かりますが、統計的根拠のないものに飛びついても、仕方がありません。

そもそも、自分の人生を何とかしたいというのは、大殺界の問題ではなく、自分の意志の問題だったはずです。自分が四六時中ネットをして困ると考えるなら、やめるようにきちんと努力すべきでしょう。行動の根拠を統計学に求めようとしてはいけません。

もう一つ、今度は、先祖にまつわる奇妙な説を紹介しましょう。

高い墓石を買うと、素敵な運命が開け、安い墓石だと、運気が下がるいうのです。
墓石というのは石のことですから、これは石の値段が人生に影響を与えるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。

この説が、いくつもの小学校で、道徳の授業で使われていることが問題になっています。言葉遣いを教えるのに、格好の教材と思われたようです。

しかし、本当にそうでしょうか。

この授業は、たくさんの問題をはらんでいます。

まず第一に、明らかに科学的に誤っています。理科離れ学力低下が言われる今、道徳だからといって、ここまで非科学的な話を、事実であるかのように教えていいはずがありません。

六星占術」が的中の根拠を統計学に求めるものだったのと同様、ここでは、道徳の根拠を自然科学に求めようとしています。それは科学に対して多くを求め過ぎです。

しつけも道徳も、人間が自分の頭で考えなくてはならないことであって、占いに教わるものではないはずです。



さて、「ニセ統計学」が受け入れられるのは、統計学に見えるからです。つまり、ニセ統計学を信じる人たちは、統計学が嫌いなのでも、統計学に不審を抱いているのでもない、むしろ、統計学を信頼しているからこそ、信じるわけです。

たとえば、天中殺がブームになったのは、『天中殺のときはは運気が悪く、財成は運気が良い』という説明を多くの人が「統計学的知識」として受け入れたからです。

しかし、仮に、統計学者に、『大殺界のときは運気が悪いのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。

『大殺界の年といってもいろいろあるので、中には運気がいいときもも悪いときもあるでしょうし、運気が悪いといってもがんばればなにかよいことも起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。

それが統計学的な誠実さだからしょうがないのです。



ところが「ニセ統計学」は断言してくれます。

『先祖供養は良いといったら良いし、大殺界は悪いといったら悪いのです。

また、占いを信じないのはなぜ良くないのかといえば、地獄に落ちるからです。

先祖供養は、高い墓石を作るから、良いことなのです。』

このように、「ニセ統計学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の統計学には決して期待できないものです。

しかし、パブリックイメージとしての統計学は、むしろ、こちらなのかもしれません。『統計学とは、様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』統計学にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。

そうだとすると、「ニセ統計学」は統計学よりも科学らしく見えているのかもしれません。



たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「合理的思考」であり「科学的思考」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。



「ニセ統計学」に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。



メディア見廻り組 山内一矢

http://d.hatena.ne.jp/f_iryo1/20061221/shiten
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