ゆれる

近所のシネコンで去年話題になったミニシアター系の映画をリバイバル上映している。
「ゆれる」という映画を見た。
これは傑作。去年の日本映画のベストワンに選んでいる人が多いのもうなずける。欠点のない映画だった。
兄、稔(香川照之)弟、猛(オダギリジョー)。
猛が母親の葬式で実家に帰ってくるところから始まる。
幼馴染の智恵子(真木よう子)と三人で渓流に遊びに出かけ、そして、稔と智恵子がつり橋を渡ったときに智恵子が川に落下してしまう。
事故か、稔が突き落とした殺人か?というストーリー。
オダギリジョー演じる猛が葬式の後の宴会で父親と喧嘩に
なり、香川照之演じる稔が止めに入り、父親が酒をこぼした畳を雑巾で一生懸命拭く。畳を拭いているけれど、自分のスーツにこぼれる酒瓶からのしずくには気づかない。
それを見つめる猛。偉いなと思っているのか軽蔑しているのか。
稔は実家のガソリンスタンドで働いていて父親の世話もしている。猛は家を出て東京で給料のいいカメラマンの仕事をしている。
この兄弟関係は被害者と加害者で、稔はいつも被害者で猛はいつも加害者である。家のことをすべてやり真面目に家族や周りに奉仕しているのにモテないし仕事も単調な兄と好き勝手やっているのに楽しい仕事をしてモテモテの弟。
そんな楽しい生活をしているのに、兄に罪悪感と軽蔑がいりまじる複雑な感情を抱く弟の気持ちがこの物語の中心になっている。宴会のシーンでは兄にフォローしてもらいながらもその兄を軽蔑しているというゆがんだ弟の気持ちが現れている。
それから、この映画は記憶についての映画だ。
観客が忘れたころにさりげなく伏線として貼っていたものを
回収する作者の手腕に感心する。
猛の思い出、記憶もよみがえってくる。兄は覚えていた思い出を弟は忘れている。
そこで、兄への解釈が変化していくという映画である。
映画というのは時間が決まっている。読み手によって時間が変わる小説や漫画とはそこが違う。
映画での伏線の使い方は観客の記憶をどう操るかで決まると思う。この監督はそのすべを知っているのだろう。
稔がガソリンスタンドで客にキレるところで止めに入った父親が離したホースが水圧で右に左に「ゆれる」シーンやこの映画やオダギリジョーが帰った後に真木よう子の台所のまな板の上に残された果肉がはみ出たさびしげなトマトといった小道具を使って鮮烈な印象を観客に残す。
「ゆれる」というのは「ゆれる」つり橋であるとともに有罪や無罪かで「ゆれる」とか兄の人間性への弟の解釈が「ゆれる」というようにいろいろ掛かっている。
そんなところも見事としかいいようのない映画であった。

ゆれる [DVD]

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