リア充なんかこわくない

よくみうらじゅんが言ってる言葉に青春ノイローゼというのがある。
青春を謳歌できているのだろうかといつも不安で仕方がないという症例である。
他にも2ちゃんねらーリア充氏ねというのも同じ心理だと思う。
自分は青春を生きていないから楽しそうなやつを見るとむかつくという。
私もそんなときがあったが、福田恆存の「私の幸福論」の中の「青春について」という一章を読んでだいぶ楽になった。
いつものように引用しつつ紹介したい。

おもうに、青春ということば自体に誤解があるのでしょう。青春という一語から、多くのひとは「甘やかされたる状態」という意味を感じ取っているらしい。銀座、喫茶店、ダンス、映画、ハイキング、それらが青春ということばの周囲をとりまいているようです。が、そんなものは青春とはなんの関係もない。私自身、自分の青春時代を顧みて、そんなものとは、ほどんど縁がありませんでした。東京に生れ東京に育った私ですが、ごく幼年時代、母に連れられて銀座に行ったことが一度ありますが、自分で友だちと一緒に銀座に出かけたのは高等学校にはいってからであります。たぶん二十くらいになってからでしょう。その高校時代にも前後を通じて三四度しかありません。その後も今日に至るまで、私の目に銀座というものが他と異なった薔薇色の夢に包まれて映じたことは一度もないのです。

今だと六本木とかクラブとかそんな感じだろうか。そんなものに青春の本質は関係ないと福田恆存は言っている。

戦争がひどくなって、それらの、いわゆる青春の小道具は、かたはしから無くなっていきましたが、だからといって、私は青春が失われつつあるとは感じませんでした。そればかりではありません。言論の自由さえ失われるようになったのですが、それでも、青春が失われたという実感はもたなかったのです。就職難も私から青春を奪うことはできなかった。なぜでしょうか。

戦争でひどい目にあったロスジェネだった福田恆存だが、それでも青春を失ったと考えていないという。

理由はかんたんです。私は若かった、そのころの自分の一時期を、一度も青春という言葉で考えてみたことがなかったからです。そういう私の眼から見ると、現代は青春意識の過剰に陥っているようにおもわれます。青春ばかりではない。さらに細分してティーン・エイジャーだの思春期だの三十娘だのと騒ぐ。ひとびとは青春の入口で興奮しその出口が近づくと慌ててしがみつくというありさまだ。皮肉にいえば戦争中の反動で社会全体が色情狂になってしまったかとおもわれるほどです。私は自分の青少年時代を顧みて、私の青春を私自身に気づかしめずにいてくれた両親や教師や社会に感謝したくなります。また、かれらは私に青春を押しつけなかったばかりでなく、私自身が無関心でいたことを結果としてはいいことをしたとおもっています。

青春に気づかしめずにいてくれた両親や教師や社会に感謝するって言い方にしびれる。普通反対だろうけど。それが間違っていたわけか。

ですから、私もみなさんにその手をおすすめしたい。「失われた青春」などという考えかたをそのまま受けいれると、みなさんのなかで、青春という概念が不均衡に大きくなります。その結果、本来は青春とは無縁のものまで、いや、そういうものばかりを、青春とおもいこみ、それが自分に欠けているがゆえに、自分は青春を楽しめないとひがむようになるのです。そのときこそ、みなさんは、本当の意味で青春を失ってしまうのです。のみならず、青春の本質とはかかわりのない薔薇色の青春にうつつをぬかしているひとたちは、それを失ったとたんに、急にふけこむのです。よく見うけることですが、若いうちから色気づいて濃厚なお化粧に身をやつし、青春とは色恋沙汰以外のなにものでもないかのように過ごしたひとが結婚して急に世帯やつれするようなものです。

リア充嫌いの皆様、朗報ですぞ。ビッチもリア充も結婚すると世帯やつれしてしまうそうだ。

もし青春ということば真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。「失われた青春」などというひとは、若くしてすでに老いたひとです。大人や老年と区別して自分たちの若さを誇りたがるひとも、いかにディスコやアルコールに浮かれていようと、すでに青春を失ったひとたちです。青春を飾るあらゆるアクセサリーを失っても、暗い不信の念やひがみ根性さえもたなければ、そのひとは青春を享受しているといえましょう。

なるほど。青春はアルコールとかドラックとかクラブとかそんなアクセサリーとは関係なく、心の態度だということか。

一言でいえば、青春などということばにあまりこだわらず、まず人間としての自分の生活に熱中すること、それが一番大事だとおもいます。それに熱中できない世の中ではないかと反問するひとがいるかもしれない。それなら、どういう世の中であろうと、どんな不幸な目にあおうと、自他を信頼できる力こそ、青春のものだと申しあげましょう。それは他人や社会にたいする批判力に眼をつぶらせろということを意味しはしません。懐疑し、批判し、裁いたのちに、なお残る信頼の力でなければならない。だからこそ、力といっているのであります。理窟ではありません。さらに附け加えるなら、その力が残らぬような懐疑や批判だったら、それはみなさんの手に余る危険なものです。構わないから投げすてておしまいなさい。

私たちの世代、ロスジェネは上のバブル世代から青春というものを見せ付けられたという世代だと思う。
そして、大学時代あたりに中途半端に青春の切れ端を味わったがために、それがなくなった今、とても悲しい思いをしている。
むしろ、青春というものがまったくなかったゆとり世代のほうが幸せと言えるかもしれない。
だが、青春というものを意識せずになにかに没頭していることが一番大事だと福田恆存は教えてくれた。
そして、上の世代に対する不信の念を抱くばかりでなく、何かを信じることの大事さも教えてくれた。
今の時代に読まれるべきものはやっぱり福田恆存だと私は思う。

やっぱり、信じることが大事なのだね。中途半端に疑うくらいなら、何かを信じぬくこと、それが青春というものなのだ。