高田純次とは

高田純次のあの限りなく薄っぺらに見えるしかし実はしっかりしてそうに見えて本当にぺらぺらな人間なのではないかとすら思わせる人間性はすさまじい。とおもう。
無責任男の系譜というのがあった。森繁、植木等所ジョージなどである。しかし森繁は深刻になり植木、所根は誠実な人ということが分かってしまった。高田だけは無責任の責任を貫いている。りっぱであります。絶対に真面目な事は言うまいと決心しているかのように見え自分というものを極力語っていかない純次であるが、それは幼少期の家庭関係のせいではないか。
高田は実母に全部で数十分しか会ったことないそうだ。母は病弱であり継母はいい人ではあったけれど気を遣ってくれたため一度も怒られたことがないそうだ。
母の喪失というのは日本文学というか日本政治の中でも大きなテーマであるが、そういう男は強くなるか徹底的に回りに目を配るしかない。母に甘えることの出来なかった高田は周囲に目を配りとにかく空白をおそれ実のない話で人生を埋めてきたのである。
楽しくなければテレビじゃないというキャッチフレーズのもと、バラエティーがテレビを席巻しつづけたわけだが、実はひょうきん族という番組よりも高田純次清川虹子の指輪を口に入れるというシーンを象徴として時代が語られることになるだろう。
不謹慎で、不真面目で、不道徳な存在。
実は府中の近くに住んでいた高田純次三億円事件の時、事情徴収を受けている。三億円事件によって壊滅的な打撃を学生運動は受けた。そこから今でも続く長い政治的アパシーの時代が始まった。
母の不在そして政治の季節の終焉という近代史の潮流に巻き込まれた高田の空白が始まった。それは確かに面白いものであった。そして、80年代、90年代を乗り切って来た。
イデオロギーを持たないということで高田は徹底的である。それはタモリのようにマニアの世界に入り込むことによる逃避でもない。高田の元から持っている性質であり、それは戯画化した現代人の姿といってもいいかもしれない。無内容に見える高田を見て我々は笑うが果たして我々は語るべきものを持っているのか?という不安に駆られる。そして、どうせ持ってないのなら高田のようになりたいと憧れるのである。
やっかいな時代である。そう言うしかない。