沢木耕太郎

朝日新聞夕刊、沢木耕太郎氏がミリオンダラー・ベイビー批評。傑作ではない、ほぼ完璧な作品と題名がついている。
以下、引用。
「だが、これは傑作なのだろうか。この映画はイーストウッドによって完璧にコントロールされている。イーストウッドは自分がよくわかっている世界の、よくわかっている感情を、よくわかっている演技によって描いている。そこには、登場人物の関係を含めて、作品のためにわざとひねり出しているという無理や過剰さがない。わかっていることを効果的に組み合わせて無駄なく提出している。それはまさに、究極の職人技とも言える見事な手際である。
 しかし、すべて「わかっている」という事情は、実は、見ている私たちにとっても同じなのだ。それが、いつかどこかで見たような気がする「既視感」を生む理由でもある。しかも、イーストウッドはこの作品に限ってはその「わかっている」世界から逸脱しようとしない。
 私にはこう思えてならない。確かにこれはほとんど完璧に作られている。だが、傑作ではない、と。」
私はこれと全く逆の感想を抱いた。感動して涙が出る。だが、「既視感」はない、と。全く同じ映画を見たのだが、沢木は既視感を生んでいるという、私は既視感ではないとおもった。
これはところどころ泣かせる場面を、沢木は既視感と読み違えてしまったからではないだろうか。泣かせ=ベタと沢木は受け取ってしまったのではないだろうか。
実際にはミリオンダラー・ベイビーにはそれほど既視感は存在しない。
たとえば、女主人公の家族の描写はいままで見たことのないものであった。それから、家族が主人公にする行為も見たこともない境地にいっていたのではないか。主人公の意志の強さが生んだ行動も。
沢木は感動=ベタ=既視感と捉えてしまったのではないか?
だが、ミリオンダラー・ベイビーの恐るべきところはそこなのである。だいたい泣きというつぼは自分の分かっていた世界をなぞってくれることによって生まれてくるものである。だがこの映画はここまでやるかというような意外性ゆえの涙なのである。
泣くからといってすべてベタな手法を取っているとおもっては大間違いなのだ。
ミリオンダラー・ベイビーは完璧な演技と完璧な演出である。だからといってあらを探してしまったのではないか。良くできたものだからこそ感動しない人間がいる。沢木氏はそういう人間であっただけではないか。欠点が逆に愛おしい場合もあるだろう。
だが、朝日新聞という大きな影響力のある媒体でこんなことをかくのはどうかなとおもう。これでは退屈な映画のようではないか。わたしは映画が短く感じたぐらい面白かった。
沢木氏はたとえたいしたことのない映画でもそれほどけなさない。だからといってこの傑作を傑作ではないと控えめに申告することも許されることではない。
はっきりいって沢木氏が音楽を見るためにはいい映画だと言った「Ray」の数百倍もこの映画はいい映画である。くだらない映画を見に行かせてこの傑作を見に行かせないないようにしむけるのは犯罪的ですらある。
金の無駄になるような映画をそこそこ評価するくらいならこの映画を激賞すべきだ。それでこそ文章で金もらってるといえるだろう。