コミュニケーションスキルという言葉が嫌い

コミュニケーションスキルという言葉について前に日記で批判しました。
「空気読め」という言葉がよく使われるのをみても分かるようにコミュニケーション能力はかなり重要だと日本社会ではみなされているようです。それが抑圧につながっているのでは?空気が読めない人もいていいのではないかと書きました。
それ以来、コミュニケーション能力を高めるにはどうしたらいいのだろうと私は思っていました。私は分からないけれど、みんなはコミュニケーション能力を高める方法を知っているのだろうなと思っていました。ところが、いろいろな人に聞いても千差万別。ある人は聞き上手になればいいとかある人はとにかく話してみるとか。
結局誰もどんな方法が一番いいのか分かっていない様子。
今度から人に「空気読め」と言われたときには「分かった。じゃあどうやれば空気読めるようになるの?」と聞き返すことにしましょう。「空気読め」と言った人は言葉を濁すことでしょう。
解決策を持ってないのに人に命令しているから私は「空気読め」とか「コミュニケーション能力を高めろ」とかいう言葉が嫌いなのです。
聞き上手になれとか人の話を聞けとか言うけれど、それはそれで難しいことなのではないでしょうか。人の話を聞くつもりで黙っていたら向こうも黙ってしまうし、あいづちを無理やり打ってもあいづちのわざとらしさが向こうに丸分かりになってしまうし。
とにかく話してみるといっても、おしゃべりだけどなんかその場を凍りつかせてしまう人がいるわけで、そういう人にはなりたくないし。そういうおしゃべりな人はコミュニケーション能力が高いとはいえませんよね。そうなるとおしゃべり=コミュニケーション能力ということもないですよね。
マクドナルドとかコンビニとかのマニュアルではとにかく笑顔が大切だと書いてあるので、笑顔が大切なのかなとも思いましたが、一人でニヤニヤ笑っているのも気持ち悪いだけですよね。
結局、コミュニケーション能力を高める方法はよく分かりません。こんな誰もどう努力したら高められるのか分からないことで「空気読め」とか言われる差別みたいなことが行なわれているのは納得できませんね。これなら、まだブスとかバカを差別するほうがいいでしょう。ブスは整形すればいいし、バカは勉強すればいい。ちゃんと努力すべき方向が分かります。もっとも私はそんな差別もしないに越したことはないと思いますが。「空気読め」という言葉は努力すべき方向が分からないからよく使われるようになったのかもしれませんね。
「空気読め」って言ったもの勝ちというか。ブスだのバカだのと違って「空気読め」と言っても言われたほうは努力できないし、もしなんとかして空気が読めるようになっても「まだまだお前は空気が読めない」と言えるので言うほうは楽なのでしょうね。