バレエのすばらしさ

メディアに汚染されているためか美人とか焼酎とかホルモン焼きのことばかり考えている私であるが、半年に一回くらいは真人間になる。
その瞬間のほとんどは思い出せないが、ひとつ挙げると映画版「がんばっていきまっしょい」を観たときもそうであった。
がんばっていきまっしょい」は女子ボート部を描いた映画であるが、スポ根映画ではないと私は思う。
主人公は腰を痛め、それでもがんばってボートを漕ぐ。そして女子ボート部は存続することになるのだが、そんな歴史を今の部員は知る由もない。女子ボート部の活躍は部室に無造作に留められている忘れられた黄ばんだ新聞の切り抜きが語るのみだ。
普通スポーツものにはライバルとかがいてあの人には負けられない好きな人がいるとかチャンピオンになるとか優勝するとかいう目標があるわけだが、「がんばっていきまっしょい」はライバルもいないし恋愛も淡いものだし優勝したいというのも強調されていない。
ただがんばっていきまっしょいとがんばるのみである。
だけれど、人間の心理というのは意外とそういうところがあるのではないだろうか。
ボートを漕ぐことに付随してついてくる結果の優勝とか栄光とかそういうものは抜きにしてボートを漕ぐということじたいに喜びというか目的があるのではないだろうか。
えてしてメディアの登場する人たちはお金とか権力とか名誉とかモテたいとかでしか人は動かないと思い込んでいる節があるが、そういうものがなくても人間には行動するときがあるのだと思う。テレビ版のがんばっていきまっしょいがやはりスポ根になってしまったのはテレビというメディアの性質が現れたのだろう。ホリエモンという人はテレビばかり観ているからああいう人間になってしまったのだ、テレビというメディアの特質として広告というものがあるので、テレビは功利的にならざるを得ない。だから、ドラマで「がんばっていきまっしょい」のような無償の行為を描けるわけがないのだ。
ところで、昨日友達が出るというのでバレエを観に行ったわけだが、やはり出演者の人たちの無償の行為に打たれた。
まず無料である。それどころか衣装代等で持ち出しだろう。
お金がもらえるわけではない。それからモテるわけでもないだろう。バレエをやっている人はモテているよという意見もあるだろうがそういう人はバレエをやろうがやるまいがモテるのである。将来的にもバレリーナになって稼いでやろうと思っているわけではないだろう。
そう考えるとこの無償の行為が限りなく崇高なものに思えてきてそんなことを考えている自分はその考えも含めて本当に恥ずかしい汚れた存在だと思えてきた。
バレエをすることじたいが喜びなのだなと私は思った。そのことじたいが目的だとしても、バレエをすることが観客を喜ばせるのだから、自己満足の世界でもない。そしてそのことが即物的な利益をもたらさないことに感動した。
人を喜ばせる無償の行為、それが人間の一番の美徳ではないだろうか。私はそう思う。純愛ブームなどの泣きブームはしょせんはメディアが商品を買わせるために仕組んだものである。
世の中に人を喜ばせる無償の行為より美しいものはない。その具体例としてバレエを私は挙げたい。私はバレエを全面的に支持する。バレエ>純愛である。
別に友達をよいしょするわけではない。本当にバレエを観てそう思ってしまったのだ。
バレエのことを考えると自分が自分でなくなり少しはきりっとしてまっとうな人間になった気になってくる。
私はバレエ至上主義者である。少しの間だけでもそう思い込んでいたい。