嫌われ松子の一生(映画)

嫌われ松子の一生は素晴らしい。大傑作です。
今年の賞レースを席巻することは決定です。
私の中で二大嗚咽ムービーというのがあります。
それは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と「ミリオンダラー・ベイビー」なのです。
嗚咽という面で嫌われ松子はこの2本に並びました。
しかも嫌われ松子はユーモアという面ではこの2本に勝っている。
笑いと涙に溢れた映画という惹句はよくあります。しかし本当に涙と笑いに溢れた映画というのはそうないと思います。異様なほどこの騒々しさけたたたましさが最初は空回りしているように感じます。しかしなぜだろう段々と感動が私の体の中を満たしていきました。
最初に松子が河原で惨殺されて発見されます。
傍で見たら悲惨というしかないそこにいたる松子の転落人生(女教師からトルコ嬢へそして…)が描かれていきます。
この映画のストーリー上の素晴らしいのは松子の転落が
病気あるいは家庭環境のせいではないところです。
病気あるいは家庭環境のせいで主人公が悲惨な人生を送るというドラマや映画は比較的作りやすいでしょう。そういうのはいっぱいありますね。最近の邦画で泣けるという映画を思い浮かべてください。
松子は中流階級に生まれている。父親は病気の妹ばかり心配して松子をあまりかわいがりません。しかし、それはよくあることで松子の転落は家庭環境のせいとは言えないでしょう。
父親はそれほど悪くない。よくいる父親です。松子を愛していないわけでもない。愛情を素直に子供に見せない親もいますよね。そんな親だったというだけです。
松子は愚かのために転落したのでもない。怠け者であったわけでもない。むしろ逆であってトルコ嬢になってからも特訓を続ける姿は涙を誘います。
運が悪かったから?端的にいうとそうなります。
しかし、それでは当たり前すぎてつまらない。
同じ監督の「下妻物語」で補強するとそれは「女の友情より男をとったから」だと思います。
下妻物語」は孤独を孤独だと感じない一人の女が友情に目覚めていく話でした。ハッピーエンドでした。
嫌われ松子」は孤独を感じてそして女の友情より父親をはじめとする異性を求めて不幸になる女の物語です。この映画ではAV女優の黒沢あすかが松子と友情を結び更生させようとしているのにそれを振り切って男と人生を歩んでいこうとしています。そして松子は妹よりも父親のことを大切に思っています。
考えてみると「下妻」と「松子」は表裏の関係になっている。
勘違いしないでほしいのはそのルール「女の友情>男との恋愛」も普遍的なものでありません。
監督の思想上のルールであり、映画というのは監督のルール上で動くものですから松子も不幸になったのです。
当たり前のことですが、女より男をとって幸せになった人はいっぱいいますので。
松子が不幸になった理由はそれでいいとして。
ではもうひとつの疑問が沸いてきます。松子の部屋にはなぜいつもテレビがあるのか?なぜそのテレビはいつも何かを映しているのか?
松子の部屋にはいつもテレビがありその時代時代の映像を流している。最初は時代背景を描くためにテレビを映しているのかなと思いました。しかし、あまりにもまぬけな映像ばかりです。ダンゴ三兄弟とか光GENJIとか。
これはあれですよ。テレビというのは松子の人生みたいなものなのですね。松子が惨殺されたあと弟は「つまらない人生だった」とつぶやくわけです。
しかし、本当に松子の人生はつまらなかっただろうか。
トルコ嬢からそしてもっと転落。
嫌な人生です。だけれど楽しかった輝いているときもあったはずです。そんなときに松子は歌います。
松子が生きた時代のテレビというのも振り返ってみるとつまらなかった空っぽだった文化の象徴のように言われています。
確かにダンゴ三兄弟、光GENJIなどの文化は空っぽに見える。しかしその空っぽの中で私達は育ってきてしまっていてテレビの影響力は計り知れなくてテレビを否定することは私自身を否定することにもなりかねないと思います。
つまらないと言い切ろうと思えば言い切ってしまえる70年代80年代90年代のテレビですが今思い出すと輝いていた場面もあったですよね。すごい面白かった楽しかった場面もありましたよね。みなさん。そう信じたい。
あともうひとつ。松子の歌について。松子はこの映画の中でよく歌います。やはり歌というのも一瞬の喜びで後には残らないものです。しかしその一瞬の喜びというのも終わった後に一言で言い切れない生きる喜びみたいなものがあります。
ということで、松子の人生はテレビのような歌のようなものだったのかなと思いました。