父親たちの星条旗

完璧な映画でした。
硫黄島の戦いをアメリカ側と日本側の両方から描くそうです。
で、1本目は昨日から公開されました。2本目は12月に公開されます。
観る前はアメリカ側の正義と日本側の正義をアメリカからの視点と日本からの視点で描くことによって相対化するのかなと思っていました。
でもそんな単純ではない。
一人一人の兵士の中に正義などの価値観も混在しているということを描いた映画です。国は関係ありません。
戦場の友情と仲間の死、感動そして壮絶な戦闘シーンという映画だろと予想している方もいらっしゃると思います。
ところが戦場のシーンは半分くらいなのです。あとは戦争から帰還した兵士のアメリカでの日々そして現在が行きつ戻りつ描かれます。
とはいえ戦闘シーンもきっちりとしています。露出した内臓まで映ります。内臓も戦闘の情景の一部ですから。
ヒーローに祭り上げられた三人の帰還兵のドラマです。同じ戦場に赴いても全く違う人生を送らざるえない。
同じ監督(クリント・イーストウッド)のミスティックリバーという映画を思い出しました。
ミスティックリバーは三人の少年が遊んでいて一人が誘拐され性的ないたずらを受けることによって三人の運命が変わっていく話です。
この映画の場合は戦争という同じ体験をしたのに全く違う受けとめ方をするのです。そして全く違う人生を送ります。
考えてみれば同じ体験をしたからといってそれを同じように思い出すことはなく、人それぞれ別々の感想を抱くのだなという当たり前のことを証明して見せてくれました。
様々な歴史観があります。しかし善玉と悪玉の二元論で分けようとする歴史観が今の日本では主流といえます。しかし、そんな簡単なものではない。
同じ体験をしてもこれだけ違うのですから。
たまたま星条旗を掲げて写真に写ったことで英雄に祭り上げられてしまった三人の中で自責の念に駆られる人もいます。
自分たちだけ有名になっていいのか?
自責に駆られないで利用しようとする人もいます。
苦しんでいる人は戦場ではみんなが英雄であり、自分だけ英雄として取り上げられるのが苦しいわけです。
それは戦闘シーンの映像で説明されます。
みんな平等に死が訪れ、勇敢だからもしくは頭を使ったから生き残るわけでもなくただたまたま弾が当たらなかったから生き残るという壮絶な戦場です。
プライベート・ライアンに匹敵します。
そこには英雄とか英雄じゃないかという明確な
区別というものは存在しません。
俳優の顔の区別もつきません。
帰還兵三人組はスピーチで私は英雄ではない。戦死した兵士が英雄なのだと繰り返し述べています。しかし群集はそんなの聞いちゃいません。
パフォーマンスのためにいろいろなことを三人はやらされます。それがトラウマを呼び覚まします。三人を英雄にして国債を買わせるため、パフォーマンスでひどいことをさせます。
この監督は本当にデリカシーのない人が嫌いですね。
ダーティーハリーのイメージが強く、とにかく銃をぶっ放している人という感じかもしれません。
しかしかなり繊細な人です。
繊細であるがゆえに平気で差別する人や無神経な振る舞いをする人を容赦なく描いています。
そんなとき苦いユーモアが冴えますね。
ミリオンダラーベイビーでは病室に「ユニバーサルスタジオ」のおそろいのトレーナーを着て現れた観光の帰りに病室に寄る家族を叱咤するシーンに笑ってしまいました。
今回は戦争が終わって忘れられた主人公の一人のところにいきなり来て写真を撮って帰っていく家族連れに笑ってしまいました。
本当にデリカシーがない。
そんなデリカシーのなさ、人の心を思いやらない人を痛烈に描く一方で主人公の一人が戦後60年経っても自分の戦争中の自分の受け持ちである「衛生兵」「衛生兵」と今でも夢の中で呼ばれる。
というシーンでは胸を打たれました。
それほどまでに責任感を持ちながら生きていくなんて。
その衛生兵は戦場で自分が出血しながらも「衛生兵」と呼ばれ
傷ついた兵士の元へ行って自分の持っている医療用具で傷の手当をします。
そんな目立たない忘れ去られそうな行為をするものこそが、あえて言うならば本当の英雄と呼べるのではないだろうか。
そんなことを問いかけています。
最後は硫黄島の上空からのショットです。
イーストウッドの映画では死者の魂が上空に舞い上がるようなヘリコプターショットで終わることが多いのです。
しかし今回は固定されたカメラによる撮影です。
神の視点から観た映画なのでしょうか。
いずれにせよ、こんないい意味で観る前の予想を裏切られ、
固定観念を覆された映画は初めてです。
今まで観たことのない素晴らしい映画でした。

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