田舎で生まれることは圧倒的に損である

いやー最近群馬の中でも田舎に住んでいる人と知り合いになったのだが、格差がすごいです。
映画館も近くに一軒だけあるのはアニメばっかりしかやってないので観に行かない。
パソコンも持ってなかった。
光のケーブルも通ってない。
でも水とかおいしそうですよね?と振ってみたら
いやー農薬とかの影響でそうでもないんですよと答えが。
スキー場とか近いんじゃないですか?
スキーは一回やったけど面白いと思いませんでした。
うーん。何かポジティブな答えが欲しい。

でもそんな風に近所に大きな本屋とか図書館もなく映画館もないという環境は確実に人格形成上に影響を与えると思う。
これはかなりでかい。
下手すると国内の田舎より海外の都会のほうが情報の差がなかったりする。
友達で今カナダに留学されている方がいるのだが、前と同じように日記を書いてコメントに返事を書かれている。海外に行っていてもネットで驚くほど日本の情報に詳しい人はいるし。アマゾン等のネット書店で日本の書籍を買うことも簡単だろう。
カナダにいる人とは同じように交流が出来るのに、距離的には同じ群馬ということで近い人(電車で都市部に来るのに一時間の人とか田舎に住んでいてネットもやらない人とか)とは全く交流の機会がない。

このように都市部は全世界的につながっているのに田舎でネット環境が整備されていない人とはつながりにくいという状況は大いに問題がある。
だが、それ以上に近所に一軒も本屋とか図書館がないような田舎に生まれてネットも最近までやったことがないような人生というのを想像してみるとぶつけようもない義憤みたいなものがわいてくる。もうそういう田舎に生まれたらインテリになるのは不可能ではないか。子供のときに本を読む環境になかったら一生本を読む楽しさはそうは味わえないし、受験勉強も本がない環境に生まれて読解力がないから本が好きな人と比べると難しいものになってくるだろう。読解力が無ければ参考書を読むのすら大変だからである。そうすると田舎から学問をしに都会に出てくるということは少なくなってくる。
マイコーチや進研ゼミなどの通信教育で奇跡的に勉強が出来るようになって大学に進んだとしてもそのあとの大学院への道は家が裕福でない限り閉ざされている。
親元から通わない限り下宿生では奨学金は支給されるだろうがアルバイト等やらないととてもじゃないが生活できる額ではない。アルバイトをしていたら親元から通っている院生と勉強する時間のギャップが生じとても学問上で業績を上げるのは難しくなる。
となると、大学院を経て学者の道を目指すということは一般の田舎者には事実上不可能と言えそうである。
となるとやはり地方の実情というのを知らない学者ばかりになるということである。
これは由々しき事態ではないか。
学問の中枢に田舎者がいないのである。
これでは政治の流れの中で田舎がないがしろにされていくのは当然の流れである。
昔はそれでも一部の地方の政治家が田舎の声を代弁していたけれど、それも都会の論理の前でかき消されていこうとしている。
田舎に生まれるということがこれほどのデメリットを持つことだと最近になって群馬の田舎のほうの人と話して痛感するようになった。
これまでは群馬の中途半端な地方都市で生まれ大学で東京に進学し向こうで働いていたのであまり気づいてなかった。
生まれたときから家の近所に大きな図書館があり大きな書店がありシネコンがある環境の人を本気でうらやましいと思う。
これは人生においてあまりにも大きな差ではないか。