たいこ持ち芸人

また、テレビ小僧というサイトでアメトークを観た。
これは面白かった。
太鼓持ち芸人と言って、先輩芸人をヨイショするのが上手い人達だった。
これは男にしか分からない世界だと思う。
男の世界なんてこんなものなんだ。
男の世界はジェラシーで成り立っているので、みんな自分よりも周りの奴がダメであってほしい、優越感を抱かせて欲しいと願っている。
そんな人間心理を知り尽くしているのが、サバンナ高橋という男であると思う。
サバンナ高橋はそのために、マジックテープの財布を持ち歩いている。
マジックテープの財布を使うことによって、金のないかわいい後輩を
演じているのだという。
先輩に連れてきてもらった飲み会が楽しいというのを言うために、
宮迫などのストレートな物言いが通用するような人には、
「今日楽しいですわ。DVDに出来ますやん」と言う。
蛍原などのシニカルな先輩にはトイレに行くときにそっと「今日楽しい」と独り言をつぶやいてさりげなく楽しさをアピールするのだと言う。
あらゆることに対して「ホンマっすか?」で対応すると言っていた。
これは本当に使えるなと思った。
というのも前の会社に先輩に「マジっすか?」だけで全部対応している同僚がいたからだ。
いつも驚いたふりして、「マジッすか?」の連呼。
私は太鼓持ちが大嫌いなので、誰かにそいつが「マジっすか?」と言うと「マジっすよ」といちいち返していた。
太鼓持ちのような存在は今まで忌み嫌われてきたと思う。
例えば、夏目漱石の「坊っちゃん」では「のだいこ」という太鼓持ちが出てくるが全く共感できない。
坊っちゃんの「赤シャツ」ですら、共感できるところはある。
というのも赤シャツというのは洋行帰りの英語教師であり、漱石の反映された姿だからだ。自分と全く逆の存在として坊っちゃんを主人公に据えたのだ。
また、スネ夫が映画版でも一度も主人公になったことがないというのも太鼓持ちがどれだけ嫌われているかということの証明になると思う。
ジャイアンですらあれだけ映画版ではいい奴になっていると言うのに。
太鼓持ちという存在はそれだけ嫌われていて、全く共感できない他者として見られているのだ。
ところが、アメトークを見たところ、人生で初めて太鼓持ちに共感し、そのテクニックに驚嘆したのである。
これはすごいことではないか。
太鼓持ちは他者ではなく、我々一人一人の心の中にいたのである。
アメトークを見せたら、漱石藤子不二雄Fもこれまでの自分の不明を恥じて、蒙を啓かれた、これから「のだいこ」と「スネ夫」中心の話を考えますと言うのではないだろうか。
全く他者だと思っていた、クズだと思っていた存在に共感させるというのは文学の仕事だと思う。
映画のドラマツルギーにおいては太鼓持ちが改心して正しい道を歩み始めるというものにせざるえない。
文学なら太鼓持ちの心理状態を描くことによって、作品として昇華しえる。
サバンナ高橋という人は文学者になったとしても一級になれたと思う。
この前の「中学時代イケてなかった芸人」ではいじめられっ子でも貧乏人でもないのに、圧倒的な不幸を背負った子の存在を明らかにした。
今度は漱石以来の近代日本文学で誰も描きえなかった太鼓持ちの内面を描くという難業を成しとげた。
サバンナ高橋に早く本の執筆依頼をしたほうがいいと思う。
ホームレス小学生がただのプロレタリアート文学の焼き直しだとしたら、サバンナ高橋は男社会のジェラシーを冷徹に見据えて、それを解決したという点においては漱石や芥川より大人だと思う。
漱石も芥川も完全に越えている。
天才としかいいようがない。



って多分言いすぎだと思う。
私もちょっと太鼓を叩いてみた。